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1100年の歴史と文化、明治維新のきっかけも。

ここには1100年の歴史がある。150年ほど前、幕末には坂本龍馬や志士達がここを通って土佐藩を脱藩し、後の明治維新へとつながった。“ゆすはら”の歴史と文化が詰まった津野山神楽は、町民の誇りなんだって。

梼原町のなりたち

梼原町は、延喜13年(913年)津野経高公がこの地に入り、開拓によって津野荘を築いて以来687年間津野氏の所領となり、地域の政治、文化の中心地として発展してきました。

慶長5年(1600年)山内氏の所領となり、梼原6ケ村東津野3ケ村をあわせて 「津野山郷」と称しました。明治維新の変遷を経て明治22年(1889年)の、梼原、越知面(おちめん)、四万川(しまがわ)、初瀬、中平、松原の6ケ村を「西津野村」と改称し、全国屈指の大村として発足しました。明治45年(1912年)村名を「梼原村」と改め、さらに昭和41年(1966年)町制を施行して「梼原町」となりました。

梼原町は、幕末から明治維新にかけて重要な役割を果たした場所です。町内には、坂本龍馬や吉村虎太郎を始めとする志士たちが、土佐藩を脱藩するために通った道が昔の趣を残したまま存在しています。
そして、梼原町の始まりとともに生まれたと言われるのが津野山神楽。穀物が豊かに実ったことに感謝する秋の神祭において、町内の各所で見ることができます。その舞には、梼原町の1100年の歴史と文化が詰まっています。

坂本龍馬脱藩の道

幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、梼原を通って韮ヶ峠から脱藩しました。

土佐勤王党、天誅組、忠勇隊に参画した梼原出身の志士、そして吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、掛橋和泉、中平龍之介、前田繁馬たちは、大いなる使命感に燃えながら野越、神根越、化粧坂、そして国境の九十九曲峠、韮ヶ峠への道を幾度となく往来したと言われています。

世の中を変えるために、脱藩した志士たちの多くは、志半ばにして不遇な最期を遂げましたが、彼らの生きざまは今も人の心を捉えてやみません。

維新の門

大志を抱き、峻険を掛け抜けた8人の志士たちの決意を偲んで、 志士の足跡が残るこの地を選び群像を建立しました。明治維新とゆかりのある場所として、梼原町の発展を望む、町内外の多くの有志の思いによって維新の門は実現しました。

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坂本龍馬について

坂本龍馬

高知の郷士坂本八平、妻幸の二男として生まれる。江戸は、千葉定吉の門に入り北辰一刀流をおさめた。武市瑞山と交わり勤王党に血盟加入、文久二年春同志澤村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。

薩長同盟の締結、大政奉還の推進など活躍したが、慶応3年11月15日、盟友中岡慎太郎とともに、京都近江屋で暗殺された。享年33歳。

六志士について

  • 吉村虎太郎

    天保8年(1837)4月18日、芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政6年(1859)梼原村番人大庄屋として赴任した。

    武市瑞山らと勤王党を結成、文久2年(1862)脱藩して京に上った。一時捕らえられて牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌3年(1863)2月上京し、中山忠光卿を擁し天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。

    しかし八・一八の政変で孤立無援となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も9月27日壮烈な戦死を遂げた。享年27歳。

  • 那須信吾

    文政12年(1829)11月11日、佐川村浜田宅左衛門光章、妻悦の二男として生まれる。梼原村郷土那須俊平の養子となりその娘為代と結婚した。
    文久二年(1862)3月26日、坂本龍馬、沢村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、4月8日には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で別枝徳道より脱藩し京都に潜伏した。
    翌3年(1863)、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で9月24日戦死した。享年35歳。

  • 那須俊平

    文化4年(1807)1月2日、坂本代吾(重隆)の子として梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、那須道場を開き指導した。特に槍術に長じ、「土佐一槍の達人」と称された。

    元治元年(1864)6月6日、玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に入った同年7月、禁門の変に参加し、奮戦の末同月19日、鷹司邸後門で戦死した。享年58歳。

  • 前田繁馬

    天保六年(1835)5月、松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、文久3年(1863)一族の前田要蔵に従って上京。禁裏守護諸藩の志士と交わった。吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。

    吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、初瀬(奈良県桜井市)で同年9月26日戦死した。享年29歳。

  • 中平龍之助

    天保13年(1842)4月3日、梼原村地下浪人中平佐平(定好)、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。

    文久3年(1863)11月6日、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い元治元年(1864)7月19日鷹司邸内で自決した。享年23歳。

  • 掛橋和泉

    天保6年(1835)3月、梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋因幡の養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。

    文久二年(1862)同志が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に類の及ぶことを恐れ6月2日自決した。享年28歳。

関連人物

澤村惣之丞

天保14年(1843年)、高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久2年(1862年)の春、坂本龍馬とともに脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕となって活躍した。
慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散、その奉公所を占領して市中の治安維持に当っているときに薩摩藩士を誤殺、「この大事のときに薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と自決した。享年26歳。

歴史・文化スポット一覧

HISTORY&CULTURE ATTRACTIONS

  • 坂本龍馬脱藩ルート

    150年ほど前に、坂本龍馬はこのゆすはらを通って脱藩した。町内には、龍馬が訪れたと言われる場所が点在していて、県境にある韮ヶ峠までは、随所に案内看板もある。激動の時代を生きた龍馬や歴史に思いを馳せながら、歩みを進めてみてはどうだろう。

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  • 宮野々関所跡

    予土の交通の要所して使用されいた関所跡。坂本龍馬が脱藩した際にもこの近くを通ったと言われている。

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  • 韮ヶ峠

    坂本龍馬が脱藩したと言われている、伊予(愛媛県)との県境。ここで引き返せば、脱藩の罪に問われることはないが、龍馬は一歩を踏み出した。その時、彼は一体どんな気持ちだったのだろう。

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  • 旧掛橋和泉邸(吉村虎太郎庄屋跡)

    掛橋和泉は、土佐藩の志士たちに援助を続け、最後は自ら死を遂げた。ここはその邸宅で、ゆすはら生まれの志士の一人、吉村虎太郎の庄屋跡地に移築したものだ。ゆすはらには明治維新と縁のある場所がたくさんある。

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  • 六志士の墓

    山の中に6つ並んだ、ゆすはらゆかりの勤皇志士(吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉)のお墓。幕末時代に尊皇攘夷論を唱え、国事に奔走して殉死した6人の文霊をしている。自分の信念を信じて動いた彼らに、手を合わせたい。

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津野山神楽

「津野山文化」の代表的な存在が「津野山神楽」です。その年の五穀豊穣に感謝する神祭(秋祭り)において、町内の随所で見ることができます。神楽の舞は18節で構成されており全ての舞を納めるには約8時間を要します。質素ながらも1100年余りの歴史を感じさせる荘厳さで、内容が簡単に理解できるのも魅力のひとつです。軽快な音楽とダイナミックな動きが見事に融合した舞は非常に楽しく、神楽が奉納される日には、県外からも多くの人が訪れます。

舞にはそれぞれ厳格な決まりがあります。「進左退右」「起右座左」といいますが、進むとき・退く時・立つ時・座る時それぞれの作法を守らなければいけません。これは原理原則を外した動作では、神の心を慰めることはできないためで、神に奉納する神楽の厳しい一面です。

  • 奉納日時

    津野山神楽は、10月30日から11月23日まで町内各地で行われる神祭で奉納されます。

    三嶋神社神祭

    10月30日 東区(川西路)/役場より徒歩5分
    11月3日 越知面区(田野々)/役場より車で10分
    11月23日 西区(竹の薮)/役場より車で10分

    ※上記の神社には、参拝者用駐車場はありません

  • 三嶋神社

    津野山神楽が奉納される三嶋神社は、津野郷の開祖・津野経高が京より土佐梼原へ入国した延喜19年(919年)に、伊豆から三嶋大明神を勧請し祀ったのが始まりです。その後、藤原純友の乱に伊予河野氏に協力して純友征伐に向かった際に、伊予三島大明神も勧請して同社に 祀ったと伝えられています。
    拝殿には4本の丸柱が据えられ、内側が神楽の舞殿になっています。拝殿正面などには、竜や雲、瑞鳥などの彫刻が見事に施されています。

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津野山神楽の歴史

延喜13年(913年)、津野経高が京より土佐梼原へ入国したことにより始まったとされています。それから1100年余りの時を越え代々の神職によって門外不出の神楽として歌い継ぎ、舞い継がれてきました。しかし戦争による混乱や時代の流れの中で正当な後継者が徐々に減少し、終戦を迎えた昭和20年(1945年)には33代神職・掛橋富松翁一人のみとなってしまいました。このままでは千年続いた神楽の正統が途絶えてしまうとの危機感から、復興の気運が起こり、昭和23年(1948年)9月に「梼原町津野山神楽保存会」を結成。掛橋富松扇を師として、旧習を破り村内各地から選ばれた青年十数名に伝承されることになりました。

梼原町津野山神楽保存会の会長は歴代の首長が務め、現在では約25人の会員が活動しています。年代も60代以上から20・30代の若手まで様々で、先輩から後輩へと受け継がれています。神祭での奉納の他に、町内外の神社などへの出舞も行っています。新しく会に参加すると、まず基本的な「幣舞」「手草」などの舞を覚え、面を着けた舞へとステップアップしていきます。各系統の舞の大方が舞えるようになって初めて「舞太夫」として免許皆伝となります。

また、昭和48年(1973年)には、県立梼原高等学校に「梼原ディスカバークラブ」が設立されました。保存会会員による指導もあって、第44回全国高等学校総合文化祭(2020 こうち総文)郷土芸能部門で文化連盟賞を受賞。さらにクラブ活動は町内の小中学校にも広がり、将来の後継者育成につながっています。 昭和55年(1980年)には、「土佐の神楽」の一つとして国の重要無形民俗文化財に指定されました。これからも、津野山神楽を愛する梼原町民によって受け継いでいきます。

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